スカイ・クロラ~希望のサイズ(2008.8.16)

スカイ・クロラ
 ~希望のサイズ

 今夏封切したアニメ映画『スカイ・クロラ』について、ここでは戦争という視点から触れてみたい。
 鑑賞すればすぐに分かることだが、戦争の描かれ方が極めて「セカイ系」のそれだ。すなわち、漫画『最終兵器彼女』的なものとなっている。戦争の理由は作中で明らかにされることはなく、また、敵も具体的な像を伴うものではない。それは一九八〇年代辺りまでに描かれてきたような「正義のための戦争」ではない。登場人物はこの「運命付けられたかのような戦争」に従事する戦闘機パイロット、キルドレだ。
 キルドレは大人になることはない。永遠に子供であることを宿命づけられている。もしもそこに死があるとするならば、それは端的に「戦死」のみだ。
 我々はここで、主人公と上官(声・菊地凛子)が夜のレストランでワインを飲むシーンに今一度着目すべきだろう。菊地凛子の声が語る戦争の「不可避的な性質」について、我々はもう少し考える必要があるのではないか。菊地凛子の声が語るのは、以下のような、現代の若者を絡め取る「理論」である。
「平和のために戦争は必要だ。人類史上戦争が絶えたことはない。社会は、民衆は、戦争を求めている。戦場で、戦闘によってパイロットが死ぬ、それがメディアによって報道される。民衆はそのニュースを聞いて安心するのだ、『戦場はこのように悲惨だけれど、私が生きているこの場所はまだ平和だ』と。よって戦争は、平和を求める民衆が、社会が、必要としているのだ。」
 ともすれば頷いてしまうような「理論」ではある。しかし実際には、この映画『スカイ・クロラ』は、民衆(キルドレではない一般の大人たち)がそのように安心するシーンを描くことはないし、何よりも死者を描かない。ここに菊地凛子の声が語る「戦争論」のまやかしがあるのではないか。そしてまた、この「理論」に多くの現代の若者が何の疑問も抱かずに共鳴しているのではないか、という私個人の一抹の不安が重く残る。現実としては、かの第二次世界大戦で、あるいはイラクアフガニスタン侵略で、犠牲になった多くの一般民衆がいたはずではないのか。
 たとえ撃墜されたぼろぼろの戦闘機を描いてはみせても、銀幕は死者たちの肉体を映し出さない。絶対的かつ不可避的な戦争及び敵と、絶えざる出撃、戦闘の中で悩むキルドレ。そこに自己を重ね合わせるのは自由だが、映画という非現実=フィクションと現実を取り違えてはならない。
 現実の戦争には、見えづらいながらも確固とした理由があるのであり、その根拠のもとに戦争は計画的に遂行される。兵士には悩むことは許されない。敵を殺しても自分が殺されても、血は迸るのである。
 「セカイ系」の描き出す「戦争」とは、結局は机上の綺麗事に過ぎないのではないか。私は、それを否定する。戦闘機がいくらカッコよかろうとも、私はげんなりしていた。私が見たいのは生の屍である。そこからのみ本当に反映(リフレクト)する、若い希望のサイズだ。
 現実はまだまだ閉塞してはいない。否、決して閉塞するものではないだろう。フィクションにもなお、そして今だからこそ、さらなる有機的なリアリティが求められている。我々の希望は何も始まってはいないのだ。

(2008.8.16)