襤褸

ちからが足りなくて、黙している声。言葉を識らなくて、眠っている心。深夜、氷雨が降る中を、私は谷底に下って行った。昼間、カワセミが飛んでいた。その翡翠の色が夢に近く、私の胸を舞った。オー、オー。スパークする鉄路の電線。轟音と共に過ぎてゆく貨車。私は見たい。私には見える。涸びた沢に蹲り、夏の夜の雨に打たれる。きみは中傷をしなかったか? 私はした。きみは愛想を尽かさなかったか? 私は尽かした。誰に? 自身に…。こうしていると、あの一年がまるで嘘のようだ。きみは笑っていた。私は笑っていた。何故、私はまたこの土地にいるのだろう。澄ます耳は雨音に塞がれ、冷たさに打たれる顔が、鼻を削がれたように痛い。痛覚。聴覚。視覚。あらゆる感覚が、今はもう働かない。否、働かなければいいと望む。カワセミ。森林。貨車。夜。在る物としてのイメージから、在った物へと。私は我儘だ。そして孤独だ。ずっぷりと濡れた服の中で、ふるふると震える。きみに感じて欲しい。きみに来て欲しい。山間の宿の灯が、ぽつりと高く、遠くに見える。一点の光。そして闇。やがて雨が上がり、夜が明ける。私はどこで眠ろう。身体を横たえよう。あらゆる事柄が、きみに繋がっている。宿の一室で、私を待つ者は誰もいない。夢? オー、オー。傘が打ち捨てられていた。光が打ち捨てられていた。私は我儘だ。孤独の現場。山猿以下の認識で、空想の敵を撃つ。クソ真面目に、私とゲームをしないか。大枚をはたいて、私はきみを失った。大いなる賭け。くくく。オー、オー。夢から醒めると俺はまた冷たい煎餅布団の中で、がくがくと震えているのか。それとも、あの地下牢だろうか。古い夢を見なくなった。きみは次第に色褪せ、単なる二人称としての「きみ」でしかなくなる。自我が強くなり、それは私の内部で悪性腫瘍のように膨らむ。ほら、見て欲しい。私は谷底に蹲り、まるで賢者のように雨に打たれる。孤独を装う。雨が弱くなった。森の息が、すうすうとする。私は立ち上がり、涸沢を離れる。今、鉄路に身を横たえたところで、果たして列車は来るだろうか。私は襤褸のように身体を引きずり、ゆっくりと森を上がる。光が打ち捨てられていた。光が打ち捨てられていた。くくく。手を伸ばせば届く距離に、確かにきみはいて、私を嘲笑っている。構わない。私は弓を引き、虚空に焦点を据える。雨が上がり雲間から覗く星々。俺は矢を射ることが怖くて出来ない。嘲笑っているきみ。山猿以下の認識。白刃の煌きのように、星が私を照らす。否、これは夢想だ。私は空想の敵を射る。矢を放つ。放て! …きみの右眼に矢が深く刺さり、きみは倒れる。私は倒れる。ずぶ濡れの鼠だ。どぶ鼠だ。ちからが足りなくて、言葉を識らなくて、というとんだ言い訳。私は涸沢に蹲っている。氷雨はまだ降り注いでいる。私は濡れて震えながら、きみとのあの一年に思いを馳せる。眼を瞑る。手を伸ばせば届く距離に。光が打ち捨てられていた。きみはコーヒーを淹れ、カウンターの向うから私に声をかけた。全てがうまく巡っていた。上出来だった。きみの匂い。雰囲気。声。会話。そう、私はあの頃に、ここで生まれて初めてカワセミを見た。きみが笑った。会話。もう何一つ思い出せないけれど、私はあの頃、確かに私だった。カワセミが枝を離れ、翡翠の色がぱっと舞った。もう一度語り掛けることを、どうか許してもらえないか。山猿でもどぶ鼠でもいい。構わない。クソ真面目に、きみを愛していた。光だった。言葉だった。空だった。自然だった。きみは大樹にしがみつき、ふうっと深呼吸した。手を伸ばせば届く距離に。私は今、星空を見上げている。虚空に放たれた空想の矢はそのまま真っ直ぐに落ちて来て、私の胸を射る。私は年老いた。力尽きた。みんな戯言だった。神がいるならば、私は神に願おう。私の死後も、きみに幸いのあらんことを。右眼を射抜かれたきみが尚も嘲笑っている。私もまたくくくと笑う。なかなかいいゲームだったじゃないか。氷雨は降り注いでいる。私は涸沢に仰向けに横たわっている。鉄路を貨車が過ぎ、電線がスパークする。なかなかいいゲームだったじゃないか。オー、オー。きみの隣に、光もまた在る。森林の呼吸。内なる敵をこそ攻めよ。私は襤褸のように…否、私は最早冷たく濡れた襤褸なのだ。鉄路に、夢が散っていた。翡翠色の夢が…。

できなさ

パチンコ・ラスベガスは見つけられなかった 本当は

見つけたくなかったのかもしれない

マンションの入口にあの人と待ち合わせたとき

最後の夜になると気付いていたから

ジュースおごってくれない? と言われて

かわりにキスしてと頼んだ

(のは映画のワンシーンか?)

もう公園のベンチから

星空に飛行機は飛び立たない

小さい頃台北に住んでいたから

休みになるといつも飛行機で日本に帰って来たんだよってあの人は言った

タバコの吸いガラを

鴨川の土手に弾き捨てて

草の上に二人仰向けに寝転んでいた

雲を見上げていると

空の上にいるみたいだね、と笑っていた

家族の話をしてくれた、昔好きだった人の話も

酔っ払っていたから

みんなと別れた後で

ミネラルウォーターを買って

何となく二人きりになったんだ

初めて好きだということを告げたのは公衆電話からだった

どこまでが性の気持ちか分からないと言ったとき、驚いてすぐに切られてしまったけど

翌日会えることになって、友だちが欲しいなーと淋しそうだった

自分には本当の友だちはあまりいないと言いながら

屋上のフェンス越しに見下ろしていた町は

何才も歳上のあの人がもう何年も暮らしている場所なのだ

もっとあの人のことが知りたいと思った

あの人の生活を知りたいと思った

目の前のあの人の

生き方を知りたいと思って、

胸がギュッと締め付けられた

僕が「男」で

あの人が「女」だったから

胸に耳を当てて心臓の鼓動を聴くだけでは物足りなくて

喫茶店でアイスコーヒーを飲みながらあの人は後悔していたけど

窓際のテーブルだったから

僕は赤いテールランプの列を眺めているだけだった

もっと一生懸命に答えを探せばよかったのだろうか? 自分なりの答えを

真夜中突然会いたくなって

暗い疎水沿いを並んで歩いた夜も

螢がいるとあの人は言ったけど結局見つけられなかったのに

(「見つけられなかった」のだろうか、本当は

「見つけたくなかった」のか……僕は)

できないんじゃなくてしたくないんじゃないの、とあの人は怒って強い口調で言っていた

自分が壊れそうなんだよ、と僕は嘘の言い訳をした

最後の夜、きっとどこかにあるはずのパチンコ・ラスベガスのネオンが頭の中で稲妻みたいに明るく光って

内心は、もっとバイトもして経済的に自立しようと思ったし、

「性」も「恋愛」も越えて生きてゆきたいと思ったし、

何よりも「詩人」になるよりも先に生きるってことがすごく大切だと気付かされた

フィリップ・モリス味のキスをした後で

でも恋愛のできなさが逆に詩人らしいよね、とあの人は言ったこともあったけど……

昔見た映画もやっぱり女の人がすごく歳上で、夏の終わりに二人は

別れちゃうんだよねーとあの人がベッドの上でくすぐったそうに笑った朝、

自転車に二人乗りしてスピードを上げて滑り降りた坂道も

ものすごく青い空と真夏の太陽の下だった

これから美容室に行くと言って

そんなに長くもない髪を片手で気にしながら

あの人とは

あの日は駅で別れたのだ

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編集

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