秋冷

秋冷


よく冷えたゼリーのような熟柿を啜る午後、
寺院ではなく聖堂の鐘が鳴り、
俺の把持した販路チャネルもまた、猫ののように澄んでいる。
俺たちはかばんに財布を入れ、パスポートをひとところに仕舞しまった。
やに、、の酷い子供が誰に似たのか、そんな話をしている。
急坂の多い都市の、
きつい勾配の上の、
林立した白いアパート。
俺はタッチパネルで彩色カラーリングされたグラフたちに指示を発し、
君は裏手の山の遊歩道を窓から見降ろしている。
カササギ〟――昨日見たあの黒い鳥の名前を、
ふっと思い出しながら、自分は、
別のこと、別の思考を考えていた。
冷蔵庫のメモを見上げながら、運河沿い、
此処ここではないと言った、
あの日の君へ。



  ⁂

聖堂の鐘が鳴り響き、此処ここではない、
此処ではないと知ったよ。
アジアの一千万都市にいても、
帰りたいと思う先史がある。
このごろじゃ、尻の先に
見えないしっぽが生えていたらと思う。
あの裏山を歩いているとさ、茱萸グミも木苺もあって、
ジュニがひどく喜んで拾った。
国境を越えて、大量の書籍たちも
箱詰めして安く送れればいいのにな。
山道さんどうを登り詰めた先に小さな寺があり、
無料でプレートに昼飯を振舞ふるまっていた。
日本じゃ見ないくらいの大きなダンプが、
やはり急坂の砂利路を上って来て、
草木が擦れる脇で、俺はジュニを抱え上げる。
帰りたいと思う時代。
此処じゃない場所。
アパートから視える夕刻のビル群を、
白いノートにとどめようとして、
二重窓に映り込んだ君とジュニの姿を、
俺は脳裏にはっきりと刻み付けていた。



  ⁂

秋冷の鐘が鳴り響き、
地上を渡って行くカササギ
あの黒い鳥は、俺たちが散策する都度、
必ずあの裏山の遊歩道で出会でくわした。
落ち葉を踏む度にかさかさと音を立てて、
ジュニが黄葉を拾い集める。
複雑なソウルの地下鉄メトロの、
彩色カラーリングされた路線図を、
俺は自分の販路チャネルに重ね合わせる。
子を連れて、LCCのエコノミーで、
帰りたくもない故国に帰る。
仁川インチョンに向かう途中で、斜め後ろから
車窓に橙色の朝陽が差し込んで来た。
君のお父さんアボニムの運転する車は、
時速百キロを超えて高速を走行する。
俺は何も心に留めないように努める。
別な生き方、別の方角を模索しようとして、
だが、俺の足はふわふわ踏み留まる。
君は黙り込み、ジュニも不機嫌だ。無理もない、
朝晩の冷え込みで、ジュニは風邪を引いたのだろう。
梢を渡って行くカササギ漢江ハンガン。白いアパート。
聖堂の鐘が鳴り響き、熟柿を啜りながら、
此処ここではない、此処ではないと知った。
そう、俺もこの旅で初めてそっと触れたんだよ。

バッシュ

バッシュ



菜園が手入れされ収穫されて行く様子を
金網越し見てるひなた
おどけた君の口覗く白い歯が
堪らなくエロチックだ
滴っていないのに滴るしずく
イメージが淡い藤棚を揺らして。
ごらん、便覧のうたを
何故躊躇っている〝じゃあね〟
柔かい横腹にキスを浴びせたら
僕のバッシュも笑いながら駆けて行く
二人だけ、可愛い膝小僧になってさ、ああ、
せつない我らの日々(罅)、浸か(疲)れたらいいのにな
過り降(くだ)って
夏至を志す
君としたこと、全部憶えておく、じゃあね、
じゃあね、坂道を下ってく
洗い残した皿の脂に
溜ったひかりみたいだ。
根気強く思う。――根気、
つよいと思う。じゃあね、
じゃあね、――君がペダルをゆっくりと漕いで。
有り余る不滅を僕たちは駆けてく

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狂れる

狂れる



風貌が低く、
呼び入れていた
夕刻だった
草の繊維で手を切り、
あえいだ
(さらに深くゆかねばならない…)
足下の砂が崩れた
スニーカーが片方打ち捨てられている
見えない連れのために、私は
胸に火を擦った
いなくなってしまう前に
無くなってしまう前に
鉄塔の影が浮んだ
ここを越えていく
風がセスナの明るい
軽い音を運び、
世界は暗転してゆく…
私は「おう」と叫びもんどりうった
壊れていくのなら、はじめに
私から壊れていこう
夕刻の坂を転げ落ちていこう
夏から秋へ、
春から夏へ、
不安のように飛び交う虻を
連れよ、叩き殺せ
浮ぶ影がじりじりと暮れる
長い転生が始まる
筆写された本の
黒い頁をちぎり喰む…
「殴るなら殴れ」と私は
民衆に怒鳴っていたのだ

人情

人情



闇の底で猫をくびり殺した、その手で
今朝もひげを剃る、戦闘機の
タッチアンドゴーの爆音で窓ガラスが慄える

近頃じゃ人情も
二束三文であがなえる、逆にいえば
人情売りには辛い渡世だ

学生時代にライフルをやっていて
今は銀行員の隣人が
出勤してゆく鉄扉のおと

浴室から戻ってくると
テーブルの上に
血塗れの新聞が広げてある

戦死したおとうとの仕業だなと思って
私は折目正しく
雑巾でインクを拭う

付けっ放しのテレビから
毀れかけた大統領が
世界は平和だと演説している

パーティーをこれまで
「党」と訳してきたが
あいまいになった

小学校のチャイムみたいに
時代を区切ってくれるものもないし
先生もとうに死んだ

嘆くことが仕事の批評家が
三人集まって、三様に嘆く
嘆けばいいさ私はそのあいだに

「希望」についての論文を百本書き、
人情を売りもし、
儚い武器でテロルを起こす

スカイ・クロラ~希望のサイズ(2008.8.16)

スカイ・クロラ
 ~希望のサイズ

 今夏封切したアニメ映画『スカイ・クロラ』について、ここでは戦争という視点から触れてみたい。
 鑑賞すればすぐに分かることだが、戦争の描かれ方が極めて「セカイ系」のそれだ。すなわち、漫画『最終兵器彼女』的なものとなっている。戦争の理由は作中で明らかにされることはなく、また、敵も具体的な像を伴うものではない。それは一九八〇年代辺りまでに描かれてきたような「正義のための戦争」ではない。登場人物はこの「運命付けられたかのような戦争」に従事する戦闘機パイロット、キルドレだ。
 キルドレは大人になることはない。永遠に子供であることを宿命づけられている。もしもそこに死があるとするならば、それは端的に「戦死」のみだ。
 我々はここで、主人公と上官(声・菊地凛子)が夜のレストランでワインを飲むシーンに今一度着目すべきだろう。菊地凛子の声が語る戦争の「不可避的な性質」について、我々はもう少し考える必要があるのではないか。菊地凛子の声が語るのは、以下のような、現代の若者を絡め取る「理論」である。
「平和のために戦争は必要だ。人類史上戦争が絶えたことはない。社会は、民衆は、戦争を求めている。戦場で、戦闘によってパイロットが死ぬ、それがメディアによって報道される。民衆はそのニュースを聞いて安心するのだ、『戦場はこのように悲惨だけれど、私が生きているこの場所はまだ平和だ』と。よって戦争は、平和を求める民衆が、社会が、必要としているのだ。」
 ともすれば頷いてしまうような「理論」ではある。しかし実際には、この映画『スカイ・クロラ』は、民衆(キルドレではない一般の大人たち)がそのように安心するシーンを描くことはないし、何よりも死者を描かない。ここに菊地凛子の声が語る「戦争論」のまやかしがあるのではないか。そしてまた、この「理論」に多くの現代の若者が何の疑問も抱かずに共鳴しているのではないか、という私個人の一抹の不安が重く残る。現実としては、かの第二次世界大戦で、あるいはイラクアフガニスタン侵略で、犠牲になった多くの一般民衆がいたはずではないのか。
 たとえ撃墜されたぼろぼろの戦闘機を描いてはみせても、銀幕は死者たちの肉体を映し出さない。絶対的かつ不可避的な戦争及び敵と、絶えざる出撃、戦闘の中で悩むキルドレ。そこに自己を重ね合わせるのは自由だが、映画という非現実=フィクションと現実を取り違えてはならない。
 現実の戦争には、見えづらいながらも確固とした理由があるのであり、その根拠のもとに戦争は計画的に遂行される。兵士には悩むことは許されない。敵を殺しても自分が殺されても、血は迸るのである。
 「セカイ系」の描き出す「戦争」とは、結局は机上の綺麗事に過ぎないのではないか。私は、それを否定する。戦闘機がいくらカッコよかろうとも、私はげんなりしていた。私が見たいのは生の屍である。そこからのみ本当に反映(リフレクト)する、若い希望のサイズだ。
 現実はまだまだ閉塞してはいない。否、決して閉塞するものではないだろう。フィクションにもなお、そして今だからこそ、さらなる有機的なリアリティが求められている。我々の希望は何も始まってはいないのだ。

(2008.8.16)